朗読ドラマ2025 シナリオハンティング
こんにちは!村上ゼミです。
今週のゼミ活動について報告します。
3月4日(火)、村上信夫先生と、2年ゼミ生、柴田芽依、田邊愛里カルニアマハラニ、渋谷逸稀の4人は、朗読ドラマ2025のためのシナリオハンティング(シナハン)で、行方市へ行きました。
シナハンとは、テレビ番組の台本や映画・ドラマのシナリオ(脚本)を書くために行う、現地に行って調査・取材を行うことです。
シナリオハンティング(シナハン)というのはロケションハンティング(ロケハン)とは違います。
簡単に言えば、シナリオを書く前の実地調査とでもいいましょうか。
ロケハンは、できたシナリオに合わせて、撮影にピッタリの場所を探しますが、シナハンはそれ以前のものです。
シナリオハンティングとは、「シナリオを執筆にあたって、取り上げる場所に行き、人物に会ったり、資料を収集して、万全を期すために訪れ、調査すること。」と言われています。
どんな話を書こうかなと大まかな3行ストーリー的なことを創り、それに則して本やネットなどでまず調べます。
でも、それだけではダメで実地に行くことで、生の事実や生の現実を見ることができるのです。(小林幸恵「表参道シナリオ日記」シナリオ・センター)
現在、プロット作成中の朗読ドラマ2025では、茨城県の鹿行地域(行方市、鹿嶋市、潮来市、神栖市、鉾田市)で、戦国時代に起こった「南方三十三館の仕置き」を題材としています。
南方三十三館(なんぽうさんじゅうさんだて、なんぽうさんじゅうさんやかた)は、中世の常陸国南部(鹿行)に割拠していた領主たちの総称です。
天正19年(1591)、常陸国統一を目指した佐竹義宣は、鹿行地域の諸将たちを梅見の宴と称して常陸太田城に招き、宴の最中に惨殺します。これが「南方三十三館の仕置き」です。
鹿行では、その恨みを忘れないために、正月の雑煮の具は先祖の血の色を意味する赤、人参だけの家や先祖が家の門で切られたので正月に門松を立てない家など、言い伝えが残ります。
今回のシナハンでは、「南方三十三館の仕置き」に関連する行方市の史跡を中心に取材を行いました。当日実際に回った順ごとに紹介します。
①大場家守住宅+玉造城跡
まず訪れたのは、大場家守住宅。
大塲家は、江戸時代歴代にわたり水戸藩の「大山守」を務めた家柄でした。
この住宅は、水戸徳川家初代藩主徳川頼房が領内巡視のおり、宿舎兼水戸藩南部の藩政事務所として、寛永年間(1624~44年)に建てられたもで、武家邸造りで「御殿」ともよばれました。
建築様式は、主屋が茅葺寄棟造(かやぶきよせむねづく)りで、役宅部・居室部・相の間の三棟から成る規模の大きな住宅です。長屋門は、藩主が来邸の時と元旦以外は開けないことから、「あかずの門」と言われております。
街道に面し、一段高く置かれた茅葺寄棟造りは風格がありました。
映画「桜田門外ノ変」のロケ地としても使用されています。
また、この住宅の背後に、南方三十三館の1人、玉造重幹の居城であった「玉造城跡」(築城年代は不明)があります。
今は、鬱蒼とした竹藪になっており、ところどころに土塁跡のような高く土が盛られた場所が、微かに城跡を感じさせます。
天正19年(1591年)、玉造重幹は「南方三十三館の仕置」によって常陸太田城にて謀殺され。玉造氏は滅亡しました。
②夜刀神社(やとじんじゃ)
1300年前の『常陸国風土記』にも登場する「夜刀神(やとのかみ)」を祀る神社です。
常陸(今の茨城)の歴史を記した「常陸国風土記」行方郡“曽根の駅”の項にその記述があります。それよれば、夜刀神の外見は角の生えた蛇で、その姿を見た者は一族ごと破滅、根絶やしになるといわれる祟り神。行方郡の原野に多数住んでいました。
やがて、人々が葦原を開墾し、新田を作ります。土地を追われた夜刀神は妨害しますが、それを追い払い、山と里に境界線を立てます。この時、夜刀神に「ここから上は神の住む場所、ここより下は人民の田であることを認めよ」と宣言。代わりに社を建て、祀ることを約束します。
100段以上の狭い山道の階段を上ると、愛宕神社」(通称:天龍山愛宕神社)社殿に辿り着きます。
夜刀神社は、愛宕神社の境内社。愛宕神社の右奥に夜刀神社の鳥居と社殿がありました。
境内はきれいに掃除され、1300年たった現在も、地元の人は、神との約束を守っていることが伝わります。
帰りに、階段の入り口、夜刀神が人間に譲った「椎井池」を見ました。東日本大震災の時にも枯れず人々を救ったそうで、この日もこんこんときれいな水が湧き出していました。
③行方市「お試し居住施設」(お試し住宅)
森に囲まれた広い一軒家で、以前は、実際に農家の方が住んでいました。今は行方市へ移住や二地域居住を検討している方々へ、実際に暮らす体験をすることができる施設です。
ドラマの主人公たちは東京から行方市の古民家へ移住する設定を考えており、視察したのです。家の周囲は、元は畑だったという広いスペースがあり、周囲は森。他の家と少し離れているため、自然の中に、ポツンと一軒家の風情があります。
目を覚ますと家の前の畑を耕し、野菜を数本抜いて、井戸で洗って、朝食の具にする。そんな“田舎暮らし”の朝を妄想しました。
④曹洞宗 泰英山 常光院
1440年に佐竹16代佐竹義舜が創建した寺院。ここには佐竹氏の供養塔があり、山門は市指定有形文化財となっています。
慶長7年(1602年)、家康は、佐竹義宣に、出羽秋田約20万石まで減封して、国替えを命令します。その2年前、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、東軍に与せず、中立的な態度を取ったことが原因といわれます。佐竹氏は54万石。さらに同族の多賀谷領などを含めると、実質的に80万石以上みられ、実に1/4の減封です。多数の藩士を養えず、鹿行地域に多くの藩士が残されたいわれます。
常光院も、佐竹氏が秋田に転封された後も檀徒の中心である家臣18騎がこの地に残留して守り続けたといわれています。
⑤島崎城跡(潮来市)
常陸大掾氏の一族である島崎氏の居城です。島崎城は鎌倉時代初期常陸大掾氏の一族行方宗幹(なめかた むねもと)の第二子高幹(たかもと)が島崎氏を名のり、以来四百年間歴代の居城として、武威を誇こります。築城は室町時代の応永年間(1394〜1426年)に十一代成幹によるともいわれます。
戦国時代、「南方三十三館」の筆頭といわれるほどでしたが、1591年、1591年(天正19年)佐竹義宣(よしのぶ)により17代城主島崎義幹(よしもと)(安定)が滅ぼされ島崎城は廃城となりました。
城跡は、地元の島崎城跡を守る会の活動できれいに整備されています。
15mほどの高台に広がり、土塁の高さ、堀の深さから、山城の堅固さを実感しました。
島崎城跡を守る会会長の生井沢清司さんが声をかけてくださり、城の解説や歴史、そして、「南方三十三館の仕置き」の後、地元では「常陸大田へ出発したのが正月の内だったため、餅を食べない」、「義幹公は、黒馬に乗っていき殺されたので、黒馬を嫌う」など、今に伝わる話も教えてもらいました。
⑥麻生城跡
麻生城の築城年は不詳ですが、大掾氏一族で行方四頭(小高氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏)に数えられた麻生氏が平安時代後期の天慶年間(938~947年)、又は鎌倉時代初期に築いたとされています。以来、麻生氏歴代の居城として整備、拡幅し長く、行方の麻生地域を支配しました。
戦国時代になると同じ大掾氏一族で行方四頭の島崎氏と対立し、天正12年(1584)に17代常安は島崎義幹と戦闘状態となり麻生城は落城、当時の城主麻生常安は自刃し麻生氏も滅びました
その後、佐竹氏の家臣・下河辺氏が入城しましたが、佐竹氏が秋田へ移封された際、代わって新庄直頼が3万石で入封し、麻生藩を立藩します。新庄氏は麻生城には入らず東側の平地に麻生陣屋を築き、そこへ藩庁を移したことで麻生城は廃城となります。
現在は羽黒山公園として、整備されています。
一角に土塁跡があり、上ってみました。霞ケ浦方向を見ると、今は樹木が生い茂り何も見えません。しかし、これらの樹木がなかった500年前は、霞ケ浦まで見渡す眺めだったと思われ、しばし、在りし日の姿を想像していました。
(SNS担当の感想)
今年の朗読ドラマは実際の歴史を題材にするため、史跡を巡りながら当時の背景を学び、雰囲気を感じ、とても良かった。今後、取材内容を元に、プロットやシナリオ作成を進めて行ければと思う。
ご多忙の中、案内していただいた、なめテレプロデューサーの宮川孝仁さん、大和田一樹さん。ありがとうございました。
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