第3回「水戸藩だけが茨城ではない。 8 万石の城下町と日本三大稲荷、焼き物の町 笠間の旅」

 2022年3 月から始まった村上ゼミの新たな活動、「地方を知り、地方に学ぶ」地方ゼミ。

♯1 は城下町としての水戸を歩く、♯2 は明治維新の先駆けとなった水戸藩と志士たちの役割を

学ぶ、をテーマに、茨城大学のキャンパスがある水戸の歴史について学んできた。

 第3回(5 月 21 日)は、水戸の隣に位置する笠間市。水戸駅から笠間の玄関口、笠間駅ま

では JR 水戸線で 30 分ほどの距離に位置し、人口 7 万 2 千人。「歴史と芸術の街」といわ

れ、江戸時代、水戸・結城両街道の交わる宿場町、譜代牧野家 8 万石の城下町、日本三大

稲荷「笠間稲荷神社」の門前町として栄えてきた歴史がある。

 また笠間は、「笠間焼」で知られる陶芸の街、芸術の街でもある。笠間焼は粘りがあり

細かい粒子の蛙目粘土(がいろめねんど)で作られる丈夫な仕上がり。丈夫な上に汚れに

も強く、江戸時代半ばから生活に使われてきた。

 2016 年に開校した茨城県立笠間陶芸大学校は、陶芸家の育成と並んで、量産品づくりの

地としての人材養成を掲げる。またゴールデンウィークには 200 軒以上の陶芸家や窯元な

どが集まる陶器市「陶炎祭」が開催される。(22 年来場者は、53 万 4 千人/笠間市発表)

地方ゼミの案内は学内に貼り、また SNS でも案内。広くゼミ外に参加者を募っている。

今回は、人文社会科学部現代社会学科准教授、星純子先生(地域論)が参加。村上先生と

3 年ゼミ生 3 人、5 人で笠間の街を巡った。


笠間の歴史の基本はココで!かさま歴史交流館井筒屋

 かさま歴史交流館は、笠間を代表する老舗旅館「旧井筒屋本館」を再整備した建物。明

治中期に建築された木造 3 階建ての建物をリノベーションし、笠間の歴史や観光情報の発

信拠点として、2018(平成 30) 年にオープンした。館長の梅原尚美氏に案内していただ

き、笠間の歴史、笠間を愛した昭和の人気歌手、坂本九の話などを講義していただいた。

 井筒屋は、江戸時代天保年間(1830~43)に旅館として創業した。最近、東京大学総合図

書館から見つかった。明治時代の井筒屋の広告には、「明治 13 年、木造 3 階建ての現在の

建物に改築された」と書かれている。

 創業の頃、稲荷信仰が盛んで多くの参拝客が泊りがけで参拝した。井筒屋のような旅人

宿兼料理店(割烹旅館)が計 9 棟。参拝後の宴会を接待する芸者衆が 200 人以上いる花街と

しても関東一円に知られていた。(「笠間便覧」明治 42 年発行)。

 現在の井筒屋は、1 階は観光インフォメーション、2 階は笠間城など笠間の歴史を紹介

する展示コーナー、3 階は貸しスペースとして利用されている。

 2~3 階の吹き抜けの天井には、旧旅館の上棟式の際に魔除けとして取り付けられた 3 メ

ートル近い「破魔矢」がそのまま展示されている。この他にも、井筒屋旅館で当時使われ

ていた囲炉裏や、自在鉤に鉄瓶、金庫、神棚などが随所に置かれ、旅館時代の華やかさを

感じる。中でも、1階、インフォメーションセンターに置かれた紫檀衝立は美しく、全員、

「おおー!」と感嘆の声を上げた。「笠間は、東京からお忍びで著名人が訪れる場所で、

いわばリゾート的なスポット」という解説があり、当時の賑わいを垣間見た。


 笠間の地名は、盆地の中に 12 の里があり、ちょうど菅笠を裏返しにしたような土地の間

に里があることから、ここを「笠間」と称したと伝わる。

 古くから集落があり、奈良時代、和銅6年(713年)に編纂された「常陸国風土記」に、

「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記述がある。

 鎌倉時代初期の旧笠間市域は、修験者や僧坊の修行の地だった。中でも二大寺院とされ

る正福寺と徳蔵寺が、激しい勢力争いをしていた。1205 年頃、下野国(栃木県)の宇都宮

氏の将・塩谷時朝が両寺を討伐。笠間を名字とし、この地を治めた。以後、戦国末期の

1590(天正 18)年、豊臣秀吉の小田原征伐の際に滅ぼされるまで、18 代約 400 年、笠間氏

の統治が続いた。

 関が原の戦いの翌年、1601(慶長 6)年、徳川家康の譜代大名・松平康重が 3 万石で入

封し、笠間藩が成立。以後、笠間藩は 3 万石前後の大名が 6 家、交代。1747(延亭 4)年、

8 代将軍吉宗に仕えた牧野貞通(まきの さだみち)が 8 万石で入封してからは固定され、

以後 9 代の藩主が就任し廃藩まで続いた。

 司馬遼太郎著「峠」の舞台となり、2022 年公開された映画「峠 最後のサムライ」(脚

本・監督:小泉堯史 主演:役所広司)の越後長岡藩牧野家 7 万 4 千石は本家、笠間藩牧

野家はその分家である。

 水戸藩と隣り合わせるだけに、「あえて水戸にひけはとらず」が常套句、常に水戸藩を

ライバル視していたという。

 勝新太郎主演で人気だった時代劇シリーズ「座頭市」(原作:子母澤寛)の主人公、市

は笠間の出身とされ、1973(昭和 48)年、シリーズ第 25 作は「新座頭市物語・笠間の血

まつり」と笠間が舞台。笠間でロケが行われた。また、1983(昭和 53)年には、三度目の

テレビシリーズ放映を契機につつじ公園に「座頭市記念碑」が建立された。2003(平成 15)

年、北野武主演作も、笠間でロケが行われた。

 笠間と縁の深いスターは、もう一人。アメリカ・ビルボード(Billboard)誌 1 位になる

など世界的なヒット曲「上を向いて歩こう」(昭和 38 年/1963、作詞:永六輔、作曲:中村

八大)で有名な、昭和の大歌手、坂本九。坂本は、戦争中、笠間にあった母の実家へ疎開

した。その縁を大切にした坂本は、結婚式も笠間稲荷で挙げている。

「だから、駅の発車メロディー、坂本九!!」と、星先生と村上先生。

笠間駅では、発車時に「幸せなら手をたたこう」と「レットキス」(1966,作詞:永六

輔・作曲:Rauno Lehtinen)が流れる。どちらも坂本九のヒット曲だ。

 午後 5 時には、坂本九の「見上げてごらん夜の星を」(1960、作詞:永六輔・作曲:いず

みたく)の時報が流れ、市内の幼稚園では遊戯の時間に「幸せなら手をたたこう」(1964,

作詞:木村莉八・作曲:アメリカ民謡)が歌われるなど、笠間の街では坂本九のヒット曲

が随所に流れる。

 ちなみに、CM などで筆者が知っている「明日があるさ」(1963,作詞:青島幸男・作

曲・編曲:中村八大)も、オリジナルは坂本九。当時、80 万枚以上セールしたと、村上先

生に教えてもらった。この曲は、JR常磐線の友部駅(笠間市)で発車メロディーとして

使用されている。


日本三大稲荷のご利益は 笠間稲荷神社

 笠間稲荷神社は、伏見(京都)、豊川(愛知)と並ぶ日本三大稲荷の一社である。

創建は 651 年と伝わり、1350 年を超える歴史を誇る。前述「常陸国風土記」の頃、既に

信仰を集める場所だったと考えられている。年間参拝者数は 350 万人。正月三が日の初詣

には 85 万人の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県 1 位を誇る。

 権禰宜の檜山真一氏に境内を案内して頂いた。東門には女性の髪が編み込まれた毛網が

あった。重い鐘を吊す際に使われたという。

「本当の髪の毛…?」と全員が凝視する。

 その昔、この地に胡桃の林があり、そこに稲荷大神がお祀りされていたことから、「胡

桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれ、山門に「胡桃下稲荷」という額が掲げら

れている。境内に入ってすぐにあるご神木は胡桃の木だ。

 本殿は江戸時代末期の 1860 年に再建・竣工したもので、全ての部材にヒノキ材を用いた

権現造(ごんげんづくり)。御本殿周囲の彫刻は、当時名匠と言われた後藤縫之助の作

「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の作「蘭亭曲水の図」等実

に精巧を極めている。1988(昭和 63)年、国の重要文化財に指定された。

 笠間稲荷神社のご祭神は、「古事記」に登場する女神、宇迦之御魂神(うかのみたまの

かみ)で、正一位という最高の位にある。「お稲荷さん」と親しまれ、日本人に最も身近

な神様。五穀豊穣、商売繁栄、殖産興業、開運招福、火防の守護神だ。

 境内のいたるところで神様のお使い、キツネの像がある。また、本殿裏にはご利益の御

礼に参拝客が奉納したキツネの置物が山になって並ぶ。

「この数だけ、願いがあり、叶ったのか」と、口に出したのは、筆者。

 本殿の前には、現代ならではのポイント。写真を撮るためのスマホスタンドが設置され

ていた。スマホスタンドを利用し、本殿バックのベストポジションでセルフタイマーの写

真が撮れる。「御朱印ガールの一人旅向き。よく考えられているな」と、村上先生のつぶ

やき。

 拝殿の前で、パシャリ。

 最後に全員で参拝。檜山氏に正しい参拝の仕方を教えて頂いた。

「真ん中は神様の通り道。その次が右の道。だから、一番神様から離れている場所でお祈

りする方が、神様への尊敬を表す左から」。

 檜山氏にならい、左側の通路を歩き、正しく二礼二拍手一礼、参拝した。


自由な作風の笠間焼に感化され、焼き物体験! 桧佐陶工房

 桧佐陶工房は、創業 150 年以上。2400 坪の敷地はで有数の広さを誇り、焼き物の街、笠

間でも数少なくなった登り窯がある窯元だ。

 まず、笠間焼の歴史、登り窯について、同工房の芝幸一氏が講義。笠間焼は笠間地域で

採れた粘土を使って作られる、関東で最も古い歴史を持つ焼き物である。江戸時代中期、

笠間藩箱田村の名主であった久野半右衛門が、信楽焼の陶工 (長右衛門) から教えを受け

開窯。江戸時代末期になると笠間焼の技術は他の地域にも広がり、特に山を一つ越えた栃

木県益子町の益子焼は笠間焼の製法を受け継いでおり、笠間焼とは兄弟産地の関係にある。

 古くは笠間稲荷神社の参拝みやげ。現在は生活雑器 (皿、カップ、鉢、湯呑、酒器等) 、

その他人形やオブジェ、モニュメントなども製作されている。

 笠間焼に使われる笠間粘土は、花崗岩 (かこうがん) 質、鉄分を多く含む蛙目粘土(が

いろめねんど)。そのまま焼くと赤黒い陶器が出来上がる。江戸時代は釉薬の一種である

「柿釉」と呼ばれる、赤みを帯びた色合いに仕上がる薬を使い水甕や壺を主に作った。明

治時代には飴釉や青釉などの色味が加わり、すり鉢と茶壺が主力製品となる。

 1889 (明治 22)年の水戸線開通で列車を使っての運搬が可能になったことで販売経路が

東日本一帯へと広がり、笠間焼は隆盛期を迎える。

 しかし、終戦後、プラスティック製品などの普及により、人々の生活様式が大きく変化

すると笠間焼の需要は減り、窯元は今まで経験したことのない危機に陥りました。

 その中、県立窯業指導所や窯業団地、笠間焼協同組合などが設立され、官民一体となっ

ての試行錯誤の末、工芸陶器への転換を図った。1960 年代時に起こった民藝ブームの際に

は、多くの作家志望者や若手の陶芸家たちを呼び込んだ。現在、約 300 人の作家がいると

いわれる。(参考:笠間市 HP,笠間焼協同組合 HP,工芸 japan)

 「◯◯焼はこうあるべき」といった型にとわられず、作家たちが自由な活動を行ってきた

ことが、窯ごとに作風が異なる、現在の笠間焼の幅広さに繋がっている。

 その後、初心者もできる「手ひねり」の手法で陶芸体験をした。

 手ひねりは、電動ろくろを使わずに、土を指先で伸ばしながら成形する方法だ。土で作

った紐を積んだり、土の塊に穴をあけたりしなから器の形を作っていく。

 スタッフの指導を受けた後、さっそくチャレンジした。しかし、スタッフは簡単そうに

やっていたのに、いざ自分がやると全く形にならない。手順も忘れる。開始 30 秒で、「こ

の後どうするんだっけ?」と、丹羽と松尾がコソコソ相談を始めた。

 それでも手本を見ながら、コップや茶碗、ワイングラスなど、それぞれ、作品を形作ら

31

れていった。30 分ほどで、作品作りが終った村上先生と松尾。飽きた 2 人は工房内を散

策、うさぎ小屋見つけ、「カワイイ!」とはしゃいでいた。

一方、浅沼と丹羽は、終了時間間際まで作品作り。細部にまでこだわった。

「性格、出るね…!」と、浅沼が語った。

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